口辺ですから最初は言霊(ことだま)呪詛だったのでしょう。総称だと思います。思念が力となって動く。太古の人が不確かな現象に理論づけをしたと思います。体系づくりをし、能力者のみに行えたものを誰でもとなり、呪文、呪符が発明されます。しかし、この中には理解がありません。力なき者が行える、つまり理解なしに簡単に呪えることを意味します。
祈祷、祝詞。皆、呪いの一部ですが文字に神が入ります。つまり祝福です。呪いとは包丁です。料理することも、人を殺すのも包丁です。つまり使い方次第なのです。
願いは、思念は、利他、最大幸福でありたいものです。人間は体系された方式に基づいてまじないを行いますが、もともと、なんとなくです。意味など判ってないのです。呪符に至っては、複雑な図などいらない。〇でも△でもいいのです。そこに念を込める、そして霊的な者が読み取る。理解すればどれだけ危険なものか判ると思います。すべて、霊的なものへのお願いなのです。コントロールなどできません。行ったら最後、解呪にさらなる呪いです。(解呪は呪った力の10~100倍の力がいると言われています。)ロクなものではありません。せめて、人の幸せの祈りであるべきです。そして、呪いには代償が必要になります。最初は自らの命を絶つ。自己犠牲に霊的な者が憐れみで叶えてみたのでしょう。そのうち、呪いの成就の為、術者が傷つかない為、他の命で代用します。そして、お供え。どんどん残虐になっていったと想像できます。
お供えは太古中国にて諸葛亮孔明が南方の種族を討伐する際に、現地民が川の氾濫に敵の生首をお供えにしていたことに咎め、饅頭をお供えしろとの施しが、今のお供えになったように伝え聞きます。それ以前にも収穫の感謝の祈祷もあり、次第に食べ物を供物にささげるようになったと思います。過去、歴史は否定はしませんが、(過去、歴史にifはありません)邪な願いに自分以外を犠牲にすることに罪悪感がなければ、もう人を辞めています。素人には呪いの解呪は成就でしかありません。力なき者と術者は侮ります。しかし、成就後は術者に呪いが戻ってきます。(代行者が返ってくる)意味のない邪悪な願いに彼らはどんな代償を求めるでしょうか?考えただけでもゾッとします。人を呪えば穴二つ。覚悟がなければ自分はかかわりたくありません。代行する霊的な者は何者なのか?良く考えてみるべきです。
●呪符、呪文。それ自体が契約であり、自分の霊格にあったものが、願いにより、行使する。呪符、呪文での現実化は、自分で行ったかは判断がつきずらく、思い込みの場合があります。低位の霊威に騙される危険性があります。変わり始めの能力者が陥る初歩的ミスでもあります。そして低位の霊威は現世関与の欲求を願いを叶える行為で代償し責任を呪術者に押し付けます。又、その代償を求めます。能力者が気が狂った状態から、正常になるまでとても危険で、あらゆる妄想と戦っているときであり、どこで、敵意を向けられるか判らない。文字通り、狂人です。助けようとした人の手を噛むことは、ざらにあります。霊格、波長を上げ、ちゃんと話せるようになると、ようやく善霊とのコミュニケーションが取れるようになり自分の願いに遠慮が出るようになる。又、神様にお願いする時に一方的に願うと代償を求められる。だから常日頃のお祀り、供養が大事であり、理解が進み話し合いが出来、合意になるようになると、一方的な願いなど出来ない。邪な願いなど言えない。常に魂の向上を求められるようになります。
●お金は他者に自分の欲求を代行してもらう時の謝礼の単位です。では、呪いについての代償は何でしょうか?人生(時間)、霊障、祟り、供物、憑依、願い、、、何らかの現世に対しての関わりのように思えます。人間は、この代償を拒否し逃げようとします。これが祓い退けになる場合があります。行き場のない代償という霊障が全く関係ない人によって供養される事をよく考えてみて下さい。
