― 序 ―
従来失せず、何ぞ追尋を用いん。背覚に由って、以って疎と成り、向塵に在って遂に失す。家山漸く遠く岐路俄かに差う。得失熾然として是非鋒の如くに起こる。
(訳)
初めから見失っていないのにどうして追い求める必要があろうか?覚めている目をそこからそむけるから、隔たってしまうのだ。外に求めるから、
真の自己を見失ってしまうのだ。真の自己からどんどん遠ざかり、別れ道があると行き違ってしまう。得るとか失うとかの分別意識が火のように燃え上がり、
是非の思いがむらがる鋒(刀のほさき)のように湧き起こる。
― 頌 ―
茫茫(ぼうぼう)として草を撥(はら)って去って追尋す。水濶(ひろ)く山遥かにして路更に深し。力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処なし。但だ聞く楓樹(ふうじゅ)に晩蝉(ばんせん)の吟ずるを。
(注)
● 茫茫(ぼうぼう)として草を撥(はら)って去って追尋す。
私は次次に湧き出る分別妄想の雑念(草)を追い払い一生懸命真の自己(牛)を探求する。
● 水濶(ひろ)く山遥かにして路更に深し。
しかし、 どこまで行っても、川の水は広く、山並みは遥かに続くように、煩悩と妄想はいよいよ盛んに湧き起こり、路は果てしなく遠い。
● 力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処なし。
私は体力も尽き、精神も疲れ果て、どうしてよいかわからない。これ以上何をどうして求めればよいのであろうか。
● 但だ聞く楓樹(ふうじゅ)に晩蝉(ばんせん)の吟ずるを。
楓の木でヒグラシ(晩蝉)がしきりに鳴くように雑念妄想が群がり起こる。これで今日もまた空しく暮れるのだろうか。
(訳)
はじめから失っていないものを、どうして探し求める必要があるのだろうか。せっかく持っているものに背を向けているから、
大切なものを見失ってしまう。自分にないものを探せば探すほど、自分が本来果たすべき役割からは遠ざかり、人生の分かれ道にぶつかっては迷いこんでいく。
炎が燃えさかるように損得で物事を考え、刀の穂先が次から次にわき起こるように善悪で物事を判断しようとするから、自分を見失い、大切なものに気づかなくなるのだ。
(解釈)
あてもなく、草むらを分け入って探し求めていく。湖は広く、山は遠くに見え、道はますます果てしない。力は尽き、精神も疲れるまで探しているのに、何の手がかりもない。
聞こえてくるのは、カエデの木にとまる、夏の終わりのセミの鳴き声ばかりである。禅ではよく「自分を見つめなさい」といわれます。
第1図「尋牛(じんぎゅう)」には、牛(自分)を探しはじめた人の様子が描かれています。では、「自分で自分を探す」とはどういうことでしょうか。それは、自分のことをよく知ることです。
自分のことを知ることで、自分にとっての幸せとは何かを考えられるのです。大切なものが分かれば、生きることに目標を持つことができ、迷いがなくなります。
しかし、この「自分にとっての大切なもの」に気づくことが難しいのです。病気になってはじめて健康の大切さを知るように、あたりまえの幸せには、なかなか気づけません。
他人と比べて、自分に足りないものばかりを見てしまいます。さらに、知識や経験が増えてくると、自分が一体どうしたいのか、分からなくなってしまうでしょう。自分にとっての幸せは、
本人にしか分かりません。だれも自分の代わりに「大切なもの」を探してはくれないのです。そして、それを見つけることは簡単なことではありません。
しかし、まず探しはじめたことに意味があるのではないでしょうか。