「正法」の真髄には、「自利・利他」、「上求菩提・下化衆生」という考え方があります。上に向かっては「悟り」を求め、下に向かっては衆生を救済していく。
しかしそうするためには、まずは自己確立が大切です。自己確立していない者が他を救済することはできないからです。「盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」 (マタイ15.14)。
まず、己の目の中にある丸太を取り除くこと。まず、ある程度の境地にまで達することが大切。そうなって、ようやく「衆生済度」の段階に達したと言えるのであります。こういう段階を「菩薩」といいます。
「菩薩」に至るまでは「自利」の修行に8割の力を傾ける。そしてそこからは「利他」のほうに比重を移していく。学んだ神理知識や悟ったことを、実社会で実際に行っていくことであります。そうすることで、
単なる知識だったものや、観念的だった「悟り」が、本物の「知恵」や「悟り」へと深まっていく。この「菩薩」の「利他行・菩薩行」というのは非常に立派なことでありますが、
実はまだ「善悪二元論」の枠組みの中なのであります。善を善として認め、善を喜び、善を行なっていく。悪を悪として認め、悪を悲しみ、悪を許そうと努力する。「衆生済度」に対する考え方も、
自分を「上」だと考え、下々の者を救済したいと思っている。「悟り」の玉座から降りて、低レベルの世界に赴いていくのだという気持ちが残っている。でも下々の人々からすれば、そうした考え方は、
「ふざけるな、何様のつもりだ!」ということになる。とにかくこういう立派な菩薩行のことを「和光同塵(わこうどうじん)」といいますが、非常に尊いことなのだけれど、あえて辛口なことを言うと、
どこかにエリート意識が潜んでいるような感じがする。増上慢の匂いがする。この「和光同塵」、本来、老荘思想で、「己の才知を隠して、世俗に交わること」を意味します。これは処世術的な考え方。
「能ある鷹は爪を隠す」という感じです。しかし仏教的には、「菩薩が衆生救済のためにその本来の在り方を離れ、衆生と同じ次元に現れること」を意味します。「衆生済度」のための方便であります。
「和光同塵」の精神で、自分から下に降りていって、衆生と同じ目線に立って、率先垂範の精神で、衆生に善き影響を与えていこう、というのが「菩薩」の精神。しかしこれは非常に立派なことだけれど、
「上と下」、「善と悪」、「自と他」、といった感じで、まだまだ「二元性」の枠組みの中での修行なのであります。ただ、この「二元性」の中で厳しい修行を極めていくことで、
最終的に「空(くう)」の真理、「光一元」の真理へと一躍跳入することができるのであります。これが「如来の悟り」、「自他一体」の悟り、「宇宙即我」の悟りです。まあ、「和光同塵」の修行段階を経ずして、
「光一元」の世界に入っていくことはできないのです。しかし、大勢の方から見れば、そんな理論理屈は偉い人の理想論に過ぎません。理論理屈は、いくら立派であっても、
現実社会では死んでいます。我々は現に苦しんでいる。のた打ち回っている。実相の世界は、「常・楽・我・浄」かもしれないが、現実社会は現に、「無常・苦・無我・不浄」の世界であります。やはり、
「平等相」のみを観じているだけでは、世の中は良くなっていかない。「平等相」を悟ったら、最高の境地から一段降りて、もう一度「差別相」を見ることだ。「諸法皆空」を悟ったら、
今度は、「諸法実相」を悟ることだ。「差別即平等・平等即差別」だ。大自然は、神の御心のままに現れているのだ。「差別相」にもまた神意が働いているのだ。大自然そのものが、
神の無言の「教え」なのだ。そして、その「教え」を体現していくことで、世の中に感化を与えていくことが大切なのであります。絵に描いたような理想論のままでは何の力もない。大自然はあるがままだ。
「偉大な悟りを開いた私が、レベルを下げて、哀れなる下々の人々に交わって、彼らを教化してやらなければ・・・」といった感じの小賢しさがありません。ただあるがままに在って、
それでいて神の無言の「教え」を説いている。
天地(あめつち)や無限の経をくりかえし
音もなく香もなく常に天地は 書かざる経を繰り返しつつ
(二宮尊徳)
「無為にして化する」とはこういう事で、「愛の発展段階説」の「存在の愛」でもあります。
・立派なお説教をするわけでもない。
・「愛だ、愛だ」と、あちこちで慈善事業をするわけでもない。
・これみよがしに大金を寄付するわけでもない。
・俺がやっているのだという気負いもない。
何もしない。ただ、ぶらりと町にやって来て、ニタニタ笑って、酒を酌み交わすだけだ。しかし、それでいて、彼と触れ合った人々の人生は、なぜか好転していくのです。
彼が何か立派なことを説教したからか? いや彼はただニタニタ笑いながら坐っているだけだ。なぜだろう? 理屈ではないのだ。それが如来様の「存在の愛」の不可思議力。
もう我慢できず、町の喧騒を逃れてみる。そして大自然の懐に抱かれたなら、不思議に心がスーッと穏やかになっていく。理由なんて分らない。理屈ではないのだ。神様の愛が私たちを包み込んで、
私たちを癒し給うのだ。神様は何も語らない。大自然も何も語らない。布袋和尚もそうです。ぶらっと現れ、酒を飲んで、たわいもない世間話をして、また帰っていく。
ただそれだけ。大自然に学び、その不思議な力、「無為にして化する」力を、布袋和尚も身につけたという事なのでしょう。「十牛図」の第一から第九までの修行の段階を、
自分の足で一段ずつ登って、そして少しずつ少しずつその不思議な力を身につけていくものなのです。こればかりは、即席は無理。如来の霊格を持った人であっても、
20年、30年という年月が必要なのです。「和光同塵」は「人為」です。努力精進の「教え」です。「無為にして化する」段階より、一段下の段階であります。
しかし、「和光同塵」の段階を通過せずして、「無為にして化する」段階に入ることはできない。「和光同塵」の精神で、努力して、努力して、その果てに、「無為自然」の境地に入って行くのです。
「努力なんてしなくていい」なんて「教え」がありますが、そんなものは言葉の遊びにしか過ぎません。「努力しなくてもよい」段階に入るためには、ものすごい努力の積み重ねが必要なのであります。
そこまで努力したら、もう努力は必要ない。あるがままでいい。でも何の努力もしないで、「そのままでいいのだ」とか詭弁を弄し、好き勝手なことばかりやっている人は、
完全に野狐禅に陥っている。ここを勘違いしてはならないと思います。
・循環構造(スパイラル)というのは、最後の「⑩入店垂手(にってんすいしゅ)」まで行くと、次は最初の「①尋牛(じんぎゅう)」に戻ってしまうという考え方。
「ひとつのおわりは、ひとつのはじまりである」。書道や茶道や柔道、剣道などの道を極めることでさえ容易ではないのです。いわんや「悟り」の道においてをや、であると思います。