本文へスキップ

オラクルの雫の霊のお話

第2図.見跡(けんじゃく)
牛の足跡を見つける
topics

information牛(真の自己)の足跡(手掛り)を見つける。

― 序 ―
経に依って義を解し、教えを閲して跡を知る。衆器の一金たることを明らめ、万物を体して自己と為す。邪正弁ぜずんば真偽何ぞ分たん。未だこの門に入らざれば権(か)りに跡を見ると為す。

(訳)
経典や先人の語録を読んで牛(=真の自己)の足跡(手掛り)を見つける。金物(衆器、鍋、釜、刃物)には色んな物があってももとは同じ金属からできている。それと同じように、万物が自分と同じであることが実感できる。牛(=真の自己)の足跡の真偽を判断できないのに、禅の世界(実体験の坐禅の世界)に入らないで思想だけで、どうして本物か偽物かを見分けることができるだろうか。まだ仏法(禅)の門に入っていないならば、かりに足跡をちらっと見つけたに過ぎないのだ。


― 頌 ―
水辺林下跡(あと)偏(ひとえ)に多し。芳草離披(りひ)たり見るや。也(ま)た麼(いな)や。縦(も)し是れ深山の更に深処なるも、遼天の鼻孔(びくう)怎(な)んぞ。他(かれ)を蔵(かく)さん。

(注)
●芳草離披たり:香りの良い草が群れ連なって生えている。
煩悩妄想の雑草の真っ只中に牛はいるのだが、見出すことは難しい。

● 水辺林下跡(あと)偏(ひとえ)に多し。
水辺や林の下の至る所に牛の跡が見える。

● 芳草離披(りひ)たり見るや也(ま)た麼(いな)や。
香りの良い草が、そこら中に拡がり繁って風に吹かれている。そこに牛がいるのだが、それが君には見えるだろうか。

● 縦(も)し是れ深山の更に深処なるも、
本来の自己(牛)を追いかけていくと、
追えば追う程、山又山と遠く奥に入っていってしまうが、

● 遼天の鼻孔(びくう)怎(な)んぞ他(かれ)を蔵(かく)さん。
天に届くほど高い牛の鼻をどうして蔵(かく)すことができようか。坐禅に専心し牛を追いかけている自分がそのまま牛(眞の自己)そのものではないか。それは 天に届くほど高い牛の鼻と同じで、どこにも蔵(かく)しようがない。
(遼天の鼻孔:天に届くほど高い鼻)

(訳)
じつは、今まで歩いてきた湖のほとりや林の中の、いたるところに牛の足あとはあった。 道ばたには、牛の食べるよい香りのする草(お経や言行録)がたくさん生えているのを見ることができる。たとえ疲れきって、方角も分からない深い山の、さらに奥深いところにいるとしても、天に届くほどの牛の鼻は、隠すことはできない。





(解釈)
牛の足あとを見つけたところが描かれています。「足あと」ですから、まだ牛そのものではありません。ようやく自分を知る手がかりをつかんだ、というところです。仏教では、一点のくもりもない月のことを「さとりの心」にたとえ、それを指し示す指を「お経や言行録」にたとえます。言行録とは、名僧といわれる人々の言葉や行いを記録したものです。指をいくら見つめても、月は分かりません。同じように、お経の意味を知るだけでは十分ではないのです。あくまでも、お経や言行録は「自分を知るきっかけ」で、自分そのものではありません。道に迷ったときの参考にはなりますが、目標にはなりません。大切なのは、自分の月(目標)を見失わないことなのです。

お経によって仏法の意味を理解し、教えを学んでようやく牛の足あと(自分を知る手がかり)に気づいた。お経を読むと、どんな形の器でも、もともと同じ金属でできているように、あらゆるものの存在が自分とつながっている、ということが分かる。でもそれは、お経に書かれてあることを理解できたというにすぎない。 何が「正しく」て、何が「間違い」なのか、はっきりとわきまえることもできないのに、お経に書かれていることを鵜呑(うの)みにして、本物と偽物をどうして見分けることができるだろうか。自分の頭で考えていないこの段階では、まだ禅の門に入っていない。(牛そのものを見つけていない。)とりあえず、「足あとを見つけた」ということである。歩きまわって疲れが限界にきていた旅人は、自力で牛を探すことをやめました。そこで、お経を読み、いろいろな人から教えをうけて牛のゆくえを追いました。そのたびに、いったい、誰の言うことが正しいのか、何を信じればいいのか分からなくなってきました。なぜなら、お経に書かれたり教えられたりした牛は、自分の牛ではないからです。でもそれは意味のないことではありません。他人の牛でも、牛は本当に実在することは分かったからです。足あとをたどれば、自分の牛は見つかることでしょう。

ナビゲーション