― 序 ―
声より得入すれば見処(けんじょ)源に逢う。六根門着着(じゃくじゃく)差(たが)うことなし。動用(どうゆう)の中、頭頭(ずず)顕露(けんろ)す。水中の塩味(えんみ)、色裏(しきり)の膠青(こうせい)。眉毛(びもう)をサツ上(さつじょう)すれば是れ他物(たもつ)に非ず
(訳)
うぐいすが枝の上で鳴いている。春の日は暖かく、風はなごやかに吹き、川岸の柳は青々としている。そんな光景のなか、見るもの聞くもの、すべてが牛になってしまった。こうなっては、どこにもこの牛から逃げられる場所はない。さて、その牛の頭には美しい角がある。その角を、どんなに上手に描いてみても、本物の美しさには、かなわない。
― 頌 ―
黄オウ(こうおう)枝上(しじょう)一声々。日暖かに風和して岸柳青し。ただ是れ更に廻避する処なし。森森たる頭角画けども成り難し。
(注)
黄オウ(こうおう):鶯
ただ是れ更に廻避する処なし。
:ただそればかりで、それ以外のものはない。周りのうららかな春の景色が自己の心牛そのものでそれ以外のものはない。
● 黄オウ(こうおう)枝上(しじょう)一声々。
鶯が枝にとまって、ホーホケキョーとさえずっている。
● 日暖かに風和して岸柳青し。
ポカポカとした 春の日ざしに両岸の柳が緑の新芽を出し、心地よい風がそよそよと吹き渡っている。
● ただ是れ更に廻避する処なし。
このうららかな春の景色から逃げようと思っても逃げようがない。周りのうららかな春の景色が自己の心牛そのものである。
● 森森たる頭角画けども成り難し。
森森と盛んに動きまわる真牛の頭と角の活動は、だれも予測できないし、画くのは難しい。
(訳)
牛の鳴き声が聞こえたので、その声を頼りにたどってみれば、ようやくのことでその姿を見つけることができた。それは、旅人が一方的に探し求めていただけでなく、牛のほうからも近寄ってきたからである。牛も自分を探していた。自分の目も耳も、鼻も舌も、体も心も、その感覚のひとつひとつが、牛を見つける手がかりとなった。日常の行動もまた、その一挙手・一投足が、やはり牛を見つけるために必要だった。だから、まるで海水に溶けこんでいる塩の味や、絵の具の中に含まれている「にかわ」のように、自分と牛も、同じように分けて考えることはできない。まゆ毛をさっと上げて、目をはっきり開いて見つめれば、まさに牛と自分は別のものではないことに気づくだろう。旅人は、何の手がかりもないところから、お経などの言葉によって足あとを見つけ、ついに鳴き声によって牛の姿を見つけました。しかし、この鳴き声も、旅人がほかの事に気をとられて注意していなければ、聞こえなかったでしょう。牛の鳴き声に気づくきっかけは、人によって違います。足あとだったり、においだったり、ひょっとして偶然かもしれません。でも、いずれにせよ、どんなに小さな鳴き声でも聞きのがすまいと思っていたからこそ、聞くことができたのです。
(解釈)
ここでは真の自己はうららかな春の景色を背景に動き回る牛で表現されている。全宇宙が牛そのものである。こうなると、この牛から逃げようと思っても逃げようがない。
ようやく牛を見つけました。しかし、牛はその姿の一部しかあらわしていません。向かいあう旅人と牛。そこには、まだ少しの距離があります。つかまえようとすれば、牛は逃げてしまうかもしれません。牛は、「こうなりたい」という自分自身の姿です。お経の教えや他人の人生を参考にしながら十分考えた、自分だけの目標です。目標があれば、そのためにするべきことが何なのか、自然に分かるようになります。そして、その目標に近づくために必要なものは、自分の本来持っている感覚や日々の行いなど、決して特別なものではない、というのが「十牛図」の教えです。さて、目標を追いかけてきた自分は、やがて目標によって成長していきます。こうなれば、もはや自分と牛(目標)とは別のものではありません。