― 序 ―
前思わずかに起これば、後念相随う。覚に由るが故に以って真となり、迷に在るが故に而も妄となる。境によって有なるにあらず、唯自心より生ず。鼻索(びさく)牢(つよ)く牽(ひ)いて擬議(ぎぎ)を容(い)れざれ。
(訳)
片手にムチを持ち、もう片手には手綱をにぎり、かたときも離してはならない。それは、牛が勝手に歩きだして、ふたたび草むらに入ったり、道に迷いこんだりしてしまいかねないからである。ところが、少しずつ飼いならしていくと、牛は次第におとなしくなってくる。こうなれば、もはや手綱でしばらなくても、牛のほうから後をついてくるようになるのである。
― 頌 ―
鞭策時々身を離れず。
恐らくは伊(かれ)が歩を縦(ほしい)ままにして
埃塵(あいじん)に入らんことを。
相将(ひき)いて牧得すれば、純和せり。
羈鎖(きさ)拘(とど)むることなきも、自(おのずか)ら人を逐う。
● 鞭策時々身を離れず。
掴えた牛をならしていく為には、鞭も綱も片時も自分の身から離さないようにしなければならない。
●恐らくは伊(かれ)が歩を縦(ほしい)ままにして埃塵(あいじん)に入らんことを。
伊(かれ):心牛のこと。
羈鎖(きさ):金具をふくめた手綱の総称。
・そうしないと、あの牛はきっと勝手に行きたいところへ行って、塵埃(煩悩と迷い)の世界に入ってしまう。
●相将(ひき)いて牧得すれば純和せり。
相将いて:真剣になって、飼い馴らしていくと、
・真剣に飼い馴らしていくと、心が段々と柔らかく純粋になってくる。
● 羈鎖(きさ)拘(とど)むることなきも自(おのずか)ら人を逐う。
自ら人を逐う。:牛が自然に(自ずから)人について来るようになる。人牛一如の状態をいう。
・段々牛がおとなしくなってくると、羈鎖(手綱や鎖)をつけておかなくても自然に人について来るようになるだろう。
(訳)
ある思いが起こると、その後から別の思い続いて起こる。本心にめざめること(覚)で、真に悟るのである。本心を見失っているから、迷うのだ。それは外界(境)のせいではなく、すべて自分の心から生まれるのだ。迷いが生じた時には、すぐ牛の鼻につないだ手綱を強く引いて訓練しなければならない。 牧牛とは、「牛を飼いならす」という意味です。牛とは、自分自身のことでした。自分にとっての幸せや、こうなりたいという目標をあらわしているのです。つまり、自分自身を飼いならすとは、自分のことを本当に知る、自分の知らない自分に気づく、ということです。旅人は牛の先に立って歩いています。牛の色がついていましたが、色がなくなりました。一見、牛はおとなしくなったようですが、まだ綱を手ばなすことはできません。
(解釈)
ふと、迷い(自分勝手なものの考え)や悩みが生まれてしまうと、そこからいろんな思いが浮かんできて、次々にあふれ出てきてしまうものだ。大切なのは、その迷いや悩みを自覚することで、本当の自分に気づき、ものごとの真実をつかむことができるようになることである。反対に、自分の迷いや悩みを見て見ぬふりをしていれば、いつまでたっても間違ったものの見方をしてしまうであろう。目で見たり、耳で聞こえたりすることを、見たまま、聞いたままに受けとめるということは難しい。ものごとがさまざまに見えるのは、自分の心をとおして、ものごとを見ているからである。では、せっかくつかまえた牛(自分)を逃がさないためにはどうすればいいのだろうか。それは、牛の鼻にむすんだ綱をしっかりと引いて、ためらわずに進むことだ。人は、日々の生活のなかで、さまざまなことを学びます。しかし、その学んだ知識や、つみ重ねた経験があればあるほど、自分の目指すものが本当にそれでよいのか、迷いが出てきてしまうこともあるでしょう。この迷いがあるために、「十牛図」の旅人は、まだ牛(目標)の綱をはなすことができません。でも、生きているかぎり、不安や悩みはついてくるものです。大切なのは、「できるか、できないか」ではなく、「そうなりたい」と思う気持ちかもしれません。