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オラクルの雫の霊のお話

第7図.忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)
牛のことを忘れる
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information本来の自己、真の自己とも呼ばれる牛を忘れる段階。

― 序 ―
法に二法無し、牛を且(しばら)く宗と為す。蹄兎(ていと)の異名に喩え、筌魚(せんぎょ)の差別を顕わす。金の鉱より出づるが如く、月の雲に離るるに似たり。一道の寒光、威音(いおん)劫外(ごうげ)。

(訳)
牛に乗って家に帰ってきた。そこには牛の姿はなく、人はのんびりとしている。 太陽が高くのぼっても、まだ夢の中。牛をつかまえるために使っていたムチも縄(なわ)も、納屋(なや)に置きっぱなしである。

― 頌 ―
牛に騎(の)って已に家山に到ることを得たり。牛も也(ま)た空(くう)じ人も也た閑(かん)なり。紅日三竿猶(なお)夢を作(な)す。鞭縄(べんじょう)空しく頓(さしお)く草堂の間。

(注)
● 牛に騎(の)って已に家山に到ることを得たり。
牛に騎って已に故郷(心の故郷)に到ることができた。

● 牛も也(ま)た空(くう)じ人も也た閑(かん)なり。
求むべき牛(本来の自己)も求める人も全く空で固定した実体が無いとがわかると、誰も居ない中にも明々白々とした世界が目前に展開している。

● 紅日三竿猶(なお)夢を作(な)す。
紅日:真っ赤に輝く太陽。
紅日三竿:紅日(太陽)が三本の竿の高さに昇ったという意味で、朝寝坊をしたという意味。

・求めていた牛(本来の自己)も求める人も空で実体が無いことが分かり、今までの不安の心が雲散霧消してしまった。真っ赤に輝く太陽(紅日)が竿を三本継いだ位高く上っても、未だ夢うつつで寝ている。

● 鞭縄(べんじょう)空しく頓(さしお)く草堂の間。
頓く:整頓の頓で散乱したものをもとの状態に復すること。
草堂:草で作った小屋。わら小屋。

・こうなると、牛を調教する鞭や縄も、すっかり無用となった。ペンペン草が生えているような小屋の片隅に放ったらかしにしてある。

(訳)
かっては一挙手一投足に鞭をあて縄をしばって暴れる牛を修練したが、今はその必要が全く無い。「絶学無為」の境地に至った。しかし未だ自己を意識する自分がいる。未だ夢うつつで寝ていることができる天下太平の安心の境涯を歌っている。



(意味)
これまで、牛があたかも人とは別のものであるように描かれていたが、それは仏の教えを説くためのたとえであって、もともと仏の教えは二つでないように、牛も人も一つのものである。ウサギをつかまえるためのワナや、魚をとるためのしかけと同じように、自分自身をつかまえるための手段として牛を用いたにすぎない。牛と人とが一つのものであるということは、まるで純金が土の中にある石から出てきたり、雲が晴れて月が現れてきたりするのに似ている。そのひとすじの月の光は、この世にはじめて仏があらわれるずっと前から暗やみを照らしていたのだ。純金も月も、土や雲にかくれていただけである。旅から戻った人が、荷物をといて、くつろいでいます。あれほど苦労してつかまえ、飼いならした牛は、どこにも見えません。牛のことなど忘れてしまったかのようです。この図は、人と牛とが一体となった段階をあらわしています。牛は、追いかける目標でもあり、本来の自分の姿でもあります。そして、牛は存在しないのではなく、かくれていただけです。雲が晴れて月があらわれるように、はじめから自分の中に牛はいたのだと「十牛図」は教えます。このことに気づくことを、仏教では「さとり」といいます。でも、牛を探そうと思わなければ、自分のことすら分からないままです。

真理に二つあるわけではない。牛を主題としてしばらく論じただけだ。蹄(ひずめ)を持つ動物と兎が別ものであり、筌(ふせご、うけ)と魚が違うのは論ずるまでもない。ただ牛を真の自己の喩えとして用いたに過ぎない。真の自己はあたかも純金が金鉱からとり出され、月が雲をぬけでるのに似ている。ちょうど、一すじの月の光が、威音王仏(過去仏)よりも以前からあるのと同じように真の自己は大昔から存在しているのだ。
  禅の目的とは何でしょうか。禅の教えとは、物事にこだわらず、あるがままの心を持つことで、自分を見失うことなく生きることができる。というものです。「こうでなければならない」というのは、きゅうくつな生き方である。と禅は説きます。病気が治ったのに薬を飲みつづければ、薬も毒になります。仏教もまた同じなのです。


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