― 序 ―
凡情脱落し、聖意皆な空ず。有仏の処、遨遊(ごうゆう)することを用いず、無仏の処、急に須(すべから)く走過すべし。両頭に著(お)らざれば、千眼も窺(うかが)い難し。百鳥花を含むも、一場のモラ(もら)。
(訳)
持っていたムチも、牛をつないでいた手綱も、自分自身も、牛さえも、何もかもが消えてしまった。青空が、はるか遠くまで広がっていて、出した手紙はどこまでいっても届きそうもない。真っ赤に燃える炉のなかに、どうやって雪をたくわえておくことができるだろうか。
― 頌 ―
鞭索(べんさく)人牛(にんぎゅう)尽く空に属す。碧天(へきてん)寥廓(りょうかく)として信通じ難し。紅炉焔上争(いか)でか雪を容れん。此に到って方(まさ)に能く祖宗に合(かな)う。
● 鞭索(べんさく)人牛(にんぎゅう)尽く空に属す。
盛んに鞭を使い縄でしばりながら、本来の自己を求めて刻苦勉励してきた。しかし到ってみるとその鞭(むち)も索(なわ)も人も牛も中味は全く空(無)だった。
(注)
● 碧天(へきてん)寥廓(りょうかく)として信通じ難し。
碧天(へきてん):青く澄んだ空。
寥廓(りょうかく):広々としてカラッとしている。「本来無一物」の真の事実、真の自己の世界を示している。中味が無いから音信の通じようがない。だが実は中味は無、即ち無と無で元々通じていたということである。無を下層脳(無意識脳)だと考えれば、このあたりは分かり易い。
・青く澄んだ空は広々としてカラッとしている。中味はカラッポで音信を通じるのは難しい。(あるがまま)
● 紅炉焔上争(いか)でか雪を容れん。
紅炉:溶鉱炉。
紅炉焔上争でか雪を容れん。:火熱が焔焔として盛んな炉の上に一片の雪を落とせば忽ち消失して跡を留めない。それと同じように、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、有無、迷悟等の一片をも止めない境地を言っている。
・真赤に灼けた溶鉱炉は、何を持ってきても溶かしてしまう。まして雪なぞは一瞬のうちに蒸発してしまって跡方も無い。(過去を憂うな)
● 此に到って方(まさ)に能く祖宗に合(かな)う。
祖宗に合う。:祖師の宗旨に叶っている。禅の真意に合っている。
・この境地に到ればようやく仏祖の精神に叶うこととなる。
(訳)
迷いの気持(凡情)が抜け落ちて、悟りの心もすっかりなくなった。仏のいる世界に執着する必要もなく、仏のいない世界(煩悩の世界)にも足をとめずに走り抜けなければならない。凡聖(両頭)のどちらにも腰をすえていないから、観音様の千眼さえ、この正体を見てとることはできないだろう。多くの鳥が花を銜(くわ)えてきて供養することなど、顔が赤らむような場面だ。
(意味)
ああしたらいいだろうか、こうしたらいいだろうか、という迷いの心からは抜け出した。かといって、何もかも分かったような、さとりの心にも、もはや、とどまってはいない。 仏さまがいる世界にいつまでも遊んでいることはない。さとりの心にとどまれば、「さとり」ということに迷ってしまう。仏さまのいない世界ならば、なおさら、さっさと走りぬけていきなさい。これが迷いだとか、あれが「さとり」だとか、そんなささいなことに心をうばわれなければ、たとえ観音さまでも、その心を見ぬくことは難しいだろう。心に何の考えもなければ、見ぬきようがないからである。さて、あるお坊さんが修行しているところに、鳥が花をくわえてお供えに来た。お坊さんがさとりを開いたら、鳥はもう来なくなった。さとったことを鳥にまで見ぬかれているとは、なんと恥ずかしいことではないか。何も描かれていません。第1図からずっと描かれてきた、旅人の姿も見えません。まさに「空(くう)」です。自分の都合も、立場も、知識も、経験も、すべて空っぽになった状態です。 旅人は、自分のやるべきことは何か、幸せとは何かを探していました。「さとり」とは、その答えが自分のなかにすでにあったと気づくことです。しかし「十牛図」は、その「さとり」でさえ忘れなさいと説いています。ひとたび目標や幸せに気づくことができたなら、もはやあれこれ考える必要はないからです。
「空(くう)の教え」を説明しておきます。たとえば、水があふれんばかりに入ったコップがあるとします。このコップで、別の飲み物が飲みたいとき、どうしますか。水をほかの容器に移したり、飲んだりして、とにかくコップの中を空っぽにすることでしょう。コップの中の水は、人のこだわりや価値観です。この、こだわりや価値観を、いったん空っぽにしなければ、ほかの考え方を受け入れたり、ものごとを自由に考えることはできない、というのが「空(くう)」の教えです。たしかに、こだわりや価値観は、ときに迷いをふりはらったり、行動のよりどころになったりする面もあるように思います。しかし、こだわりも価値観も、絶対に変わらないものかといえば、自分の都合や人の意見によって変わってしまうこともあるでしょう。こんなふうに、自分では確かなものだと思っていることでも、じつは案外たよりないものだったりするのです。たよりないものに、いつまでも、しがみついていてはいけません。それは、川に流されているのに、自分で泳いでいると思いこんでいるようなものです。
荘子の思想にも、「天地と同根、万物一体」の思想がある。荘子の「両忘」の思想はこれと似たところがある。普明禅師の十牛図の第八位は「相忘」となっており、荘子の「両忘」の思想に近いことを示唆している。第8位「人牛倶忘」は荘子の中国思想の影響を受けていると思われる。この境地は仏位だと考えられている。禅宗では、「1円相」で表現されることが多い。