― 序 ―
本来清浄にして、一塵を受けず。有相の栄枯を観じて、無為の凝寂に処す。幻化に同じからず、豈に修持を仮らんや。水は緑に山は青うして、坐(いなが)らに成敗を観る。
(訳)
本来の面目(真の自己)は清らかで、塵ひとつ受けつけない。仮りの世の栄枯盛衰を観察しつつ、無為寂静(涅槃)の境地にいる。しかし、空虚な幻化(まぼろし)とは違うのだ、どうしてとりつくろう必要があろう。川の水は緑をたたえ、山の姿はいよいよ青い。居ながらにして、万物の成功と失敗・栄枯盛衰の理をありのままに観るだけだ。
― 頌 ―
牛を求めて旅をしてきたが、結局もとにもどり、はじまりにかえって、牛も見えず、自分もない。これでは、何も見ず、何も聞かずにきたようなものだ。まるで、家の中にいるのに、目の前の庭にある、物に気づかないのと同じである。旅に出るずっと前から、湖は広々としていたし、花も赤く咲いていたのだ。
(注)
● 本に返り源に還って已(すで)に功を費やす。
本に返るとは一見元の境地に還ってきたように見えるが、それ迄にどれ程修行を積んできたであろうか。
● 争(いかで)か如(し)かん直下(じきげ)に盲聾(もうろう)の若(ごと)くならんには。
どうしてもっと早く、直ちに盲聾(めくらやおし)のようにならなかったのであろうか。
● 庵中には見えず庭前の物 。
庵中の人にはが庭前の物が見えない。
● 水は 自(おのずか)ら茫茫花は自ら紅なり。
水はたださらさらと流れ、花はただ赤く咲いている。
(訳)
返本還源とは「人空法亦空(にんくうほうまたくう)」すなわち主観(人)と客観(法)の境界が消失し主客一体であるという事実(心境一如)に到達した境地である。これがもともとの我々の姿で、特別のものではなかったという境地に戻る。いわば元の木阿弥に帰る(源に還る)のである。これが返本還源の境地であり、仏道とか如来とかいう跡はどこにも無くなってしまう。まさに「悟了は未悟に同じ(悟ってしまえば悟る前と同じ)」であり「絶学無為の閑道人」とは、こういう人を云うのである。しかし、「絶学無為の閑道人」とは仏道とかいう跡や臭みは無くなってしまっても、未悟の状態と全く同じではない。返本還源とは「悟了は未悟に同じ(悟ってしまえば悟る前と同じ)」と言っても、未悟に同じではない。螺旋的に進化発展し一皮剥けた境地だと考えられる。
(解釈)
どんな人の心でも、生まれてきたときは清らかで、チリ一つさえついてはいなかった。それが、月日がたち、経験をつむと、自分なりのものの考えが、心をくもらせてしまう。 だから、この世界の移り変わりをながめても、はやりすたりにまどわされないで、心に何のこだわりもなく、ありのままに見ていくことが大切だ。それは、この世界を幻のように、はかないものだと見なさい、というのではない。本来の、清らかな心で見れば、世界はそのままで美しいのである。どうしてむずかしい修行をする必要があるだろうか。湖の水は緑であり、遠くの山は青である。そんなことは歩きまわらずに、ただすわってながめていれば分かったはずなのだ。日々のいそがしさの中で、幸せを感じたり、目標を見失ったりすることがあります。また、知識や経験が増えてくるにつれ、あれこれ考えをめぐらせてしまいます。そんなときは、悩みや迷いだけでなく、幸せや目標のことも忘れればいいのです。苦労したあげく手に入れたものは、そう簡単に失うものではありません。風が吹けば花びらは散ります。でも、だからといって木が枯れるわけではありません。花にこだわるより、根をしっかり張ることのほうが大切なのです。